これがキリスト教です

4月に入りました。冬の間中、枯れ木のように見えた教会の柿の木の枝に若葉が芽吹き、近所の小学校の校庭の桜は満開です。至る所にいのちの息吹を感じます。

昔、一人の説教者が言いました。「主イエスを信じるならば、電信柱に花が咲き、焼いた魚が躍り出すような奇跡の人生となります。」電信柱も焼いた魚もいのちはありません。主イエスの福音は、信じる者にいのちを与えるのです。どんな絶望と暗黒な中からも立ち上がるいのち。私たちの存在を根底から支える霊的ないのち。私たちの心を潤し、生きる力を与え、死んでも死なない霊的ないのちです。

使徒の働きの3章にこんな記事があります。ぺテロとヨハネが午後3時の祈りの時間に宮に上っていくと、宮の門の入口に生まれながら足の利かない男が座していました。男は二人に施しを求めると、ペテロはこう言ったのです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)すると彼は躍り上がって立ち、歩き出し、神を賛美しました。

ペテロたちが、たとえ金銀を与えたとしても、彼の人生は変わることなく、相変わらずに物乞いの人生でした。けれども、彼は、主イエスの御名による命を受けたのです。これが福音です。これがキリスト教です。

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