「共感共苦」、初めて耳にする言葉でした。クリスチャン新聞5/29号の1面の木原活信氏(同志社大学社会学部教授)の記事に心が刺されました。
社会福祉を専門とする木原氏のところには、教会に行けなくなった人、教会に行きたくてもいけない求道者などが沢山相談に来るそうです。Aさん。幼いときに両親が離婚し、父子家庭に育つも、父親は精神障害を患い自殺。貧苦を舐めた生活を送り、夜の仕事にもつく。「直感的に聖書に何か答えがありそうで、教会に行きたくなったけど、私のような汚れた人って教会の門なんてくぐれるはずがない。」と言うのだそうです。どんなに否定しても。
一方で教会は、「どなた様もお気軽にお越しください!」と伝道集会を開き、熱心に伝道。けれども求道者はわずか。何たるミスマッチ。木原氏は、この最大の要因は他者への共感の問題ではないだろうかと指摘されるのです。
これも木原氏が言うのですが、主イエス様の行動の源には、他者の痛み、苦しみへの共感がいつもありました。共感というよりも「共感共苦」。他者の苦しみを自分の苦しみのように共に苦しむことです。
自分がいかに主の心から遠い者であるかを感じさせられました。そして私達の教会が少しでも主の御心に近くなれるようにと願わされたことでした。
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」イザヤ63:9
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