忘れられることは、さびしいものです。高校時代のことです。私は、授業で名前を呼び間違われたことがありました。「サクマ!」と呼ばれたのです。
今から振り返ると確かにサクマ君は、私とよく似た顔立ちのクラスメイトでした。でも私は何となく傷つきました。自分の存在が忘れられたように感じたからです。
ところで聖書の神はこう言われます。「イスラエルよ、あなたはわたしに忘れられることがない。」イザヤ44:21
「イスラエルよ」と呼びかけた神は、私たち一人ひとりに対してその名を呼んで、「あなたはわたしに忘れられることはない。」と言われるのです。
人生にはいろいろな時があります。自分の存在が認められ、評価され、充実した毎日を送っているときもあるでしょう。そんな時は、自分では気が付かなくても有頂天であるかもしれません。その逆に、自分などいてもいなくても同じではないかと卑屈な気持ちになり、さびいし思いを持つときもあるでしょう。けれども、多かれ少なかれどんな人もいずれは過去の人なり、やがて忘れられていきます。それが、人の世の現実です。
しかし、聖書が啓示する神は、「あなたはわたしに忘れられることはない。」と言われるのです。
私たちは、主イエス・キリストにあってこの神と共に歩み、その交わりを喜び、その中に憩い、生きているのです。それが、キリスト者なのです。
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